阿呆トラベルとは何か
😏 私
このたび、長年の憧れであった“無益な旅行記”をシリーズ化することにした。
題して「阿呆トラベル」。
尊敬する内田百閒先生の『阿呆列車』が鉄道なら、こちらは空港と飛行機である。
だが、旅そのものは限りなく阿呆である。
💬 ランディ君
旅行記なら現地の観光が中心になるのでは。
😏 私
ならぬ。
現地の話は、読者が勝手にガイドブックで補えばよい。
私が見たいのは、空港の自動ドアが開く瞬間と、搭乗ゲート前の緊張感と、機内の妙に狭い座席で繰り広げられる人々の小劇場である。
空港から始まり、機内で過ごし、到着ゲートを出たら終了。
それが阿呆トラベルの鉄則だ。
💬 ランディ君
つまり旅先で何を食べたとか、どこを歩いたとかは書かない。
😏 私
書かない。
書くとしたら現地到着の空気の匂いまでだ。
それ以上は“現実”であって“旅”ではない。
阿呆トラベルは往路・復路の二部構成
😏 私
さて、阿呆トラベルは常に前編=往路、後編=復路の二部構成とする。
だが、この二つは似ているようで似ていない。
むしろ精神状態は対極だ。
往路:すべてが祝祭
😏 私
往路は浮き立つ心だ。
空港の床がすでに祝祭であり、ラウンジの紙ナプキンですら幸福の予兆である。
機内のドリンクサービスが遅れても、「旅だから許す」という気分になる。
💬 ランディ君
往路は期待値が高いという分析でよろしいでしょうか。
😏 私
分析しなくて良い。
旅は体感だ。
復路:魂の抜けた空虚
😏 私
そして復路。
こちらは一転して、魂が抜けたような寂しさが漂う。
同じ空港でも、同じ機体でも、まるで違う場所に見える。
座席は往路より三割狭く、気力は五割減り、機内モニターの映画さえ途中で観る気が失せる。
💬 ランディ君
科学的根拠は相変わらず皆無ですね。
😏 私
皆無で結構。
阿呆トラベルに理屈は不要である。
旅の終了条件:ゲートを出た瞬間
😏 私
そして、後編は帰りの空港に立った瞬間に旅が再開し、日本の到着ゲートが閉じた瞬間に旅が完全に終了する。
たったそれだけの旅である。
だが、その“たったそれだけ”が猛烈に面白いのだ。
💬 ランディ君
つまりこのシリーズは、今後どの国へ行っても、観光地の描写はゼロ。
😏 私
ゼロで統一する。
空港と機内だけが旅の舞台。
旅先の町は、単なる背景に過ぎぬ。
いや、背景すら描かれない。
それが阿呆トラベルの矜持である。
シリーズとしてのルール
😏 私
つまり、このシリーズでは
・行きは空港→機内→到着ゲートで終了
・帰りは現地空港→機内→日本の到着ゲートで終了
・観光記録は一切ない
という、奇妙に潔い旅の記録を続けていくことになる。
💬 ランディ君
読者がついて来られるでしょうか。
😏 私
ついて来られなくても良い。
むしろ、ついて来られないほうが阿呆でよい。
旅は、役に立ってしまった瞬間につまらなくなる。
ここから始まる“空港だけの旅”
😏 私
さあ、これより始まる「阿呆トラベル」シリーズ。
空港の床と機内アナウンスこそが主人公であり、私とランディ君はその脇役である。
観光地は存在しない。
だが、空港だけで旅は完結する。
それを証明するための阿呆な旅が、いま幕を開ける。


コメント